2011年01月01日

遊びの終焉に続く自我の終焉⇒「自己中は敵」という闘争共認・規範共認

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昨年2010年は、遊びの終焉という意識潮流が顕在化した、画期的な年であった。
今年2011年には、どのような意識潮流が生まれるのであろうか?
年頭に当たって、それを占ってみたい。
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まず、『るいネット』「豊かさ期待の消滅⇒遊びの終焉によって、近代社会が騙しであることが露わになってきた」から引用する。

放浪の旅に出かけたり、仲間(仕事の同僚や友人、知人etc.)と、サークル活動やカラオケで盛り上がったり、線路のガード下の飲み屋で飲みながら、「明るく、楽しく、前向きに、皆仲良く」という本源風規範観念で過ごしていた。しかし、なかなか本当の答えが出せなくて、不全が解消されないままであった。

遊びで不全が解消されなかったのは、そこに騙しが混じっていたからでしょう。逆に言うと、人々が遊びから離脱しているということは、その騙し性に気づきつつあるということを意味しています。
この1年くらいで、「近代社会全体が騙しだったのではないか」という認識がしだいに強くなってきました。今では、ほぼそう断定できるところまで根拠が固まりつつあります。
何故、人々は騙しに気づくようになってきたのでしょうか?
近代を貫く社会意志=豊かさ期待の中にも大量の幻想(騙し)が混じっています。万人が豊かさ期待の中にいる時代は誰もその騙しに気づきません。例えば、豊かさ期待を正当化する主張である近代思想の欺瞞性には、誰も気づきませんでした。
ところが、豊かさ期待が消えると、人々の意識との乖離が目につくようになります。例えば、豊かさが実現されると、誰も市場拡大には可能性を感じなくなります。ところが、特権階級は市場拡大絶対の主張を垂れ流し続けます。すると誰もが「この連中は、どこかおかしいのでは?」と感じるようになってゆきます。これも、豊かさ期待という社会意志は消えたが、観念はそのままなので、社会意志との乖離が大きくなり、矛盾が目につくようになってきたことの一つの事例でしょう。
ここで問題が一つあります。
豊かさ期待の消滅は約10年前ですが、騙しに気づくようになったのは最近1年の話です。それは遊びの終焉と密接に関係しています。
近代思想に収束したのは一握りの知識階級にすぎません。大多数の大衆が収束したのは芸術・芸能・娯楽です。これは言い換えれば、解脱埋没=麻薬漬けになって何も見えなくなるということと同義です。
遊びを失速させたのは秩序収束⇒課題収束の潮流ですが、それによって解脱の麻薬から覚めると、「近代社会の全てが騙し」ということが透けて見えるようになってきたのです。
このように時代潮流の変化が背景にあるので、今後、騙しや詭弁が急速に通用しなくなるのは必然です。社会的には、騙しや詭弁を弄するしか能がない学者やマスコミは、大衆から総スカンになってゆくでしょう。
自分発の認識の典型が学者で、正当化のための詭弁以外は何も生み出せずに、200年前から変わらない同じ話をあれこれとこね繰り回しているだけです。
豊かさ期待は消滅して、人々の期待は実現期待・本源期待に向かっています。従って、これまで自分発の観念で人々を騙してきた学者やマスコミとの乖離がどんどん大きくなっています。そして、ついに「近代社会は騙しで出来上がっている」という認識が登場しました。今後、人々は「自分発ではダメ。みんな発でないと何も生み出せない」ということに急速に気づいてゆくことでしょう。

よく考えてみれば、近代社会の騙しの最たるものの一つが「自我こそ原点である(or意識の統合者である)」という個人主義の根幹概念である。それは個人主義をはじめとする観念によって正当化されただけではない。近代思想に収束していたのは知識人や学生だけにすぎなかった。それに対して、万人が収束していたのは娯楽である。このように、「自我こそ原点である」という騙しは、芸術・芸能・娯楽や小説などの自我の麻薬充足によって下支えされてきたのである。
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ところが、’08年世界バブルの崩壊→私権観念の消滅に続いて、’10年自我⇒私権の目的物である遊びが終焉したということは、私権観念や遊びによって正当化されてきた自我も、生命力を失って消滅過程に入るのは必然である。
それだけではない。
いよいよ「自我(自己中)は人類の敵」という共認が形成され始めるのではないだろうか。
共認充足こそ人類の最大の活力源であり、それを破壊するのが自我である。
『るいネット』「人類の本性は共同性にある①」 「人類の本性は共同性にある②」から引用する。

【1】逆境下で共認機能に全面収束
肢の指の先祖返りによって、樹の上に棲めるというサル時代の最大の武器を失った人類は、想像を絶する逆境に陥る事になる。
鋭い牙も、走力も他の動物に比べて肉体機能が遥かに劣る人類は、地上では狸のような小動物にも負ける存在であり、従って日々の食料も確保できず恒常的な飢えに苛まれ、常に肉食動物の襲来に脅える絶望的な生存状況に追い詰められた。
この様に本能では到底生きていけない(適応できない)状況下で、人類はサル時代に獲得した共認機能(相手と同化することによって充足を得る機能)に全面収束してゆく事となる。つまり恒常的な飢えの苦痛と怯えを少しでも解消すべく、互いに身を寄せ合い安心充足を得る(親和充足)。そしてその充足(と充足を与えてくれる仲間に対する全面肯定視)を基盤に、仲間同士額を寄せ合い、みんなの表情や身振り手振り(評価)を羅針盤として、日々「どうする」の行動方針(=課題と役割)を模策し闘争共認を確立していったのだ。

【2】共認充足こそ最大のエネルギー源であり、人間の生きる目的
この日々生きる事さえ絶望的な状況の中で得られる共認充足は、人類にとっての唯一の生きる希望であり、唯一最大のエネルギー源でもあった(つまり生きる目的そのものであった)。事実、共認機能に全面収束した人類は、その後必然的に共認充足度を上げるベクトルで共認機能をより進化させていくことになる。
例えば人間に固有の「喜怒哀楽」などの感情やその表現手段の多様性はその一例である。笑顔は相手への肯定視をより発展させた表情であるし、涙は悲しみや喜びの共有を通じて集団の成員の一体感を更に高めるべく生み出されたものである。この様に共認充足度を高めるために、相手への伝達手段や受信能力を発達させていく事で、人類は知能を進化させてきたのだ。つまり共認機能こそが人類の心の中核であり進化の原動力でもあったのだ。

【3】自我を全面封鎖した共同体の中で人類の本性=共同性は育まれてきた
この様な状況下では自分勝手な振る舞いや仲間を否定する行為(自己中=自我)は、人類の命綱ともいえる共認充足を妨げ、集団の結束を破壊し、集団の存続を危うくする(ひいては個体の生存も危うくする)ため、徹底的に抑制・封印されてきた。つまり人類の本性は共認充足を中核とする共同性にあるともいえる。
そのように自我(や私権)を全面封鎖した共同体の中で500万年に亙ってこの人類の本性は形成されてきたのだ。

【4】自己中は共認充足を破壊する人類の敵
共認機能は同化機能、正確に言えば相手の期待=心を掴みそれに応える事で互いに充足を得る機能である。従って自分しか頭に無く相手の心=感情を省みない自己中はこの人類にとって最も重要な共認充足を破壊するものであり、排除・封印すべき対象=敵であると原理的にいえる。
(とりわけ、現在は私権獲得に収束できなくなった以上必然的に共認充足に収束するしかない、その過渡期にある。にもかかわらず、自分が原点、従って自分の好きな様に、という自我私権を原点とした、人類の意識構造に反した近代イデオロギーが人々の頭を洗脳している。従って現在「自己中は人類の生命線である共認充足を破壊する=敵である」という事実認識は極めて重要である。)

そして今や、2010年11月02日「人類は私権時代の全てをリセットし、ゼロから進化過程を辿り直している」にあるように、人類(とりわけ日本人は)私権時代の全てをリセットして、出発点=原猿の親和充足の地平に戻ろうとしている。そして、その共認充足を母胎として、今後10年で、親和充足⇒規範共認⇒観念共認の時代へと一気に急上昇してゆく。その共認充足を破壊するのが自我(自己中)である。
遊びが終焉しその麻薬から醒めると、これまで近代思想や芸術・小説・遊興充足によって美化され温存され続けてきた自我が、実は共認充足の破壊者であり、充足収束の潮流に対する敵対者であるという、その正体に人々は気づき始めるであろう。
従って、2010年遊びの終焉に続いて、2011年から生起するのは、自我は共認充足の敵対物、さらには秩序の破壊物、言い換えれば「自己中は人類の敵である」という意識潮流ではないだろうか。
この「自我は共認充足・秩序の破壊物」「自己中は人類の敵」という共認こそ、充足収束から生まれる最初の闘争共認であり、最初の規範共認ではないだろうか。そして、その根拠として人類史をはじめとする構造認識の必要性が生起するのではないだろうか。
そして、その矛先は、史上最大の自己中国家アメリカや、それに盲従して己の利権を貪る特権階級支配に向かうであろう。
るいネット
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List    投稿者 staff | 2011-01-01 | Posted in 12.現代意識潮流5 Comments » 

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コメント5件

 異常な日々の異常な雑記 | 2011.09.10 21:07

右翼の敵と左翼の敵~仮想敵の設定を変える必要性~

右翼と左翼はいつの時代も喧嘩しているわけですが、いずれの側にしても、仮想敵がフランス革命の頃とはえらく様変わりしたなあ、という印象があります。
本来なら…

 unimaro | 2011.09.11 20:20

お疲れ様です。
最近立て続けに起こされた、北アフリカにおける「民主化運動(反乱)」も、その派生なようですね。
民主主義の致命的なところは「責任の所在が曖昧」なところです。
特に連帯責任が皆無。
そういったことにおいては、日本の封建社会においては、その責任は重く、命を掛けることもしばしばあり、連帯責任は当然でもありました。
主がおかしいこともたまにはありましたが、ほとんどの場合、その「家」を守るために、めったにはろくでもない人物を主にしないよう、回りが努力に勤めました。
今の「民主主義国家とその社会」の中の「人間の崩壊」を見ると、
昔の封建制度社会の中での人々たちが、どれほどまともであったか。
まぁ、江戸中期以降は商人の自由を許しすぎたために、農工者や武士階級に歪みが出たのですが、これはどうにもできたはずのことです。
過去の事例から、「勉強」し、未来につなげることが、今我々にできるベストのことだということは、私も同様に思います。

 にほん民族解放戦線^o^ | 2011.09.14 2:31

“カダフィ政権崩壊” 欧米による「独裁者からの解放」という名の“侵略”が着々と進む中東

リビアのカダフィ政権が事実上崩壊した。
独裁者が倒れて民主化が実現。メデタシメデタシ…というムードのようだが、チュニジアやエジプト…

 muu | 2011.09.25 13:36

民主主義という言葉は、社会主義者が言う場合(権力集中型)と、自由主義者が言う場合(権力分散型)で、まるで意味が違ってしまいますからね。
書かれているのは、社会主義的民主主義(権力集中型)の意味で、まさにハイエクがいう「隷属への道」そのものです。
民主主義という言葉は、この社会主義的民主主義(権力集中型)の意味で使われることがほとんどですから、リバタリアンも「民主主義反対」「民主制よりは君主制のほうが、よほどマシだ」という人が多いのです。

 hermes bags ireland | 2014.02.03 0:09

hermes 74321 日本を守るのに右も左もない | 民主主義の全否定3~民主主義とファシズムは同じ穴のムジナである

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