2010年07月20日
もう、プロには期待できない~大衆による直接社会統合の可能性 8 共認形成をみんなの手に取り戻す~
参院選はブレまくりの菅首相とともに民主党大敗退。
去年の熱は一気に冷めてしまいました。
何がこのような雪崩を起こしたのか?
小沢氏のダーティーさか?鳩山氏の優柔不断さか?
民主党新政権(小沢-鳩山)の新機軸はいくつかありましたが、その中でも事業仕分けは官僚機構の中に巣食う利権集団の既得権益破壊でした。
私権時代なら、自民党と官僚が仕切っていた密室での権利配分がそれなりに社会統合として機能していました。
しかし、共認の時代になれば、分捕り合戦では統合できません。万人が納得する判断軸が必要です。

るいネット超国家・超市場論24 必要か否かの『判断の土俵』が、国家と市場を呑み込み、解体し、再統合してゆくより
この『必要か否か』という判断機能は、存在(本能・共認・観念)を貫く、極めて基底的な地平にある判断機能である。あるいは、全ての生物に備わっている不可欠の生存機能であると云っても良い。 しかし、私権闘争の圧力で満たされた社会では、人為的な私権の強制圧力とそれに基づく共認圧力によって、「私権だけが絶対的に必要」(従って、何にたいしても必要か否かの判断は一切無用)という極めていびつな状態が作り出されてきた。 従って、貧困が消滅し、私権の強制圧力が衰弱すれば、人工的に作り上げられた「私権だけ」といういびつなタガが外れて、生物本来の基底的な判断機能が再生されてゆくのは当然である。そうなれば、従来の私権的なるものの全ては(身分もお金も、あるいは物財も解脱も)、改めて『必要か否か』という土俵上で真っ当な判断の洗礼を受けることになる
つまり、『必要か否か』という最基底の、それゆえ真っ当でシンプルな『判断の土俵』(=新しい演場の基礎)が出来てくると、国家も市場も全面的にその土俵の上に乗らざるを得なくなり(∵逃げ道はない)、そこでの評価指標=身分やお金は『現実に必要か否か』を表わすモノサシに変質せざるを得なくなる。
~中略~この様にして、『判断の土俵』を基礎とし、『人数』を評価指標とする新しい演場の中に、国家(身分)も市場(お金)も呑み込まれ、解体され、再統合されてゆくことになる。
それは、「必要か否か?」というシンプルな判断軸になるはずです。事業仕分けはその萌芽を見ることが出来ました。
その部分に国民は期待していました。潜在思念に訴えかけるものがあったと思います。
しかし、国際資本に操られるマスコミ・検察は小沢-鳩山を葬り去り、ちんけな社会運動家上がりの菅と仙谷にその流れに蓋をされてしまった。
だから、民主党は負けたのです。なんだか可能性を感じなくなってしまったのです。
日本国民はどうすればいいんでしょう?
もうあいつらに任せていられない。
そんな気分になっていませんか?
前回、前々回で扱いましたように、社会を統合しているのは「共認」です。
人々、誰もが「そう思う」内容を作り出すことが、社会統合の最上位にあります。
私権が崩壊し、そこが機能不全を起こしてはや数十年、いよいよ末期症状です。

写真は類グループHPなんでやネットワークから
人々の潜在思念の中には、もう共認形成をの担い手となる準備が出来つつあります。
単純で真っ当な「必要か否か」という指標が武器です。
つまり、これまで社会共認をリードしてきたインテリたちの存在意義が無くなったのです。
(事業仕分けも、インテリたち(官僚・学者)同士の分捕り合戦をインテリたち(マスコミ)が傍観するという構造で、その意味では旧い仕掛けでした。)
るいネット 超国家・超市場論19 もう、傍観者=インテリ統合階級は、要らないより
既に述べた様に、人類の命綱は共認にあり、従って認識形成こそ社会形成の生命部である。ところが、これまでは人類の命綱である共認形成の要(かなめ)の位置に、学校(教師)や大学(学者)やマスコミ(報道人や文化人)が陣取り、一握りの知識階級が人々を染脳し、共認を支配してきた。しかし、学者や文化人やマスコミは、教育や研究や発信を業とする特権階級であり、社会の単なる傍観者に過ぎない。決して現実社会を生きる当事者なのではない。
まして、傍観者に過ぎない特権(知識)階級が供給する情報をひたすら消費してきた読者・観客は、当然のことながらもっとひどい傍観者に成り下がってゆく。事実、昔からインテリとは、何事に対しても傍観者を決め込む、最も腰の重い連中の代名詞である。
だが、何事も批判するしか能がなく、従って何一つ実現できたことがない只の傍観者に、現実社会の真の姿が見える訳が無い。
案の定、彼ら学者や文化人やマスコミは認識を誤り(もともと彼らは現実離れした誤った認識しか持っていなかったが)、その誤った認識を人々に植え続けて、遂に人類滅亡の危険さえ考えられるほどの全面的な閉塞状態に人々を追い込んで終った。当然のことながら、かかる危機状況に至っても、彼らから答え(=新しい認識)が出てくる気配は全くない。それに対して、普通の人々は、夫々の専業を営みながら、現実社会を生きている当事者であり、当事者だからこそ現実を直視し、新しい現実を(良かれ悪しかれ)作り出してくることが出来た。
そして遂に今、本来の共認形成に向けての大衆(普通の人々)の準備が整った。それが、人々の外向収束⇒認識収束の大潮流を母胎とする『認識形成サイト』の登場である。
今、人々が私権の鎖を断ち切って形成しつつある外向収束⇒認識収束の潮流とは、まさに人々が自らの手で共認を形成してゆこうとする潮流であり、新たな社会形成の生命部を成す真の共認は、夫々に専業に従事する普通の人々が認識収束した場=認識形成サイトにおいて、そこに収束した認識仲間たちの協働によって形成される。
普通の人々による共認形成サイト。これが社会統合を大衆の手に取り戻す最終解答です。
では、この大衆による社会統合へ向けて日本は具体的にどう変えてゆくべきなのでしょうか?もう少し、現在日本の潮流を見て行きます。
- by ヒヒ at 19:12



コメント
確かに事業仕分けは目新しかったし、
「へ~、こんなことやってるんだ~」と
密室がオープン・ザ・ドアになった感じで、
わたしのまわりでも盛り上がりました。
ショー的演出も狙いのひとつだったと思いますし、
あんな短時間の丁々発止で予算削減されてもいいのか、
という当事者もいたとは思います。
なので改善の余地はありますが、
「必要か否か」の大きな方向性としては
とても可能性を感じました。
改善しつつ、前進していってほしいですネ。
>単純で真っ当な「必要か否か」という指標が武器です。
>つまり、これまで社会共認をリードしてきたインテリたちの存在意義が無くなったのです。
>(事業仕分けも、インテリたち(官僚・学者)同士の分捕り合戦をインテリたち(マスコミ)が傍観するという構造で、その意味では旧い仕掛けでした。)
「必要か否か」の判断軸が無いからこそ、事業仕分けも上手くいかなかったっということですよね。本当にただ否定するだけの仕分け人と傍観者のマスコミ。仕分けされる側は利権争いの真っ只中で自我を蒔き散らかさす。
目標に遠く及ばなかったのは、当然の結果といえそうですね。
早く「必要か否か」の土俵へ上がってほしいものです。。。
ピピさんありがとうございます。
事業仕分けが全て良いわけでも、共認形成の最終形態でも無いと思います。
でも、あれだけ国民が注視したのは、潜在思念に「必要か否か」が浮かび上がったのではないかと。
だから期待したのに、結局政局はグダグダで、その失望が民主党敗退に繋がったのではないかと。
匿名さんありがとうございます。
なるほど、確かにそうですね。
面白いのですが、結局、私権闘争を高みの見物して面白がっていたんですね。
政治家対官僚を演出していましたが、実体は財務省がネタを出し、官僚対官僚になっているなど、国民にとって本当に必要ななものが何なのか、まだまだこれからですね。
事業仕分けは政権交代の画期的な成果の一つでした。但し、官僚利権の枝葉のその部分留まり、日本を差配する特権階級の腐臭に迫ることもせず、小物の発掘に留まったのが残念でした。
仕分けの場も内野はレンボーと白幡を掲げた小物役人、外野が騙しのマスコミで構成された劇場会議では期待も出来ません。
脱官僚や脱米(米国金貸し支配)の鋭い視点で切り込むには、ダラ菅政権には全く期待できません。米国の手先となって自集団の特権を肥大させ、同胞・日本国民を苦しめる官僚特権・グローバル企業の特権に事業仕分けの急所です。急所に迫るそんな政権の樹立が民意の根底にあるのではないでしょうか。
怒り心頭
怒り心頭さん、ありがとうございます。
今回シリーズのテーマは「社会統合を大衆の手に取り戻す」なので政治家はどうでもいいんですが、今の政局自体はひどいですね。
個人的には、小沢氏あたりを中心に民族派の大同団結の動きが起こらないかと期待しているんですが。