2010年05月25日
言語能力の土台は、聞くことにある~音読でも重要なのは”周りの声を聞くこと”~
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(画像はコチラからお借りしました)
4/29のなんでや劇場レポート「観念力とは何か?」シリーズ、楽しく読ませてもらいました。
人類の話し言葉の形成過程は、赤ん坊の頃にまず「聞く」ことから始まっていますが、
後の言語能力を形成する上で、この「聞く」ということが非常に重要なことなのではないかと気付きました。
言語能力の土台は、聞くことにある
という仮説を元に、なんでや劇場の流れに沿って、言語能力における「聞く」ことの重要性について書いてみたいと思います。
■大前提として、言語能力はどこから発生しているのか?
●まずはサル時代に形成された共認機能があり、共認機能の最先端に人類の観念機能がある。つまり、言語能力の土台は共認機能である。
●共認機能を主に司るのは右脳である。
一般哺乳類もサルも、右脳・左脳に大差はなく、人類だけが右脳と左脳を使い分けている。ということは、人類は新たに観念機能をつくったので、右脳と左脳が役割分化したと考えられる。つまり、新しい観念機能を左脳が主に分担した結果、その分、共認機能の大部分を右脳が担うようになったと考えられる。
右脳と左脳を繋ぐ脳梁という部位があるが、脳梁は女では太く、男は細い。つまり、男は右脳←→左脳が繋がりにくく、女の方が繋がりやすい。だから女はおしゃべりが得意。
また観念機能を考える時に重要な視点は、言葉は単なる記号にすぎないということ。言葉それ自体は何の意味も持っておらず、無秩序の塊である。「ABC」も「アイウエオ」も記号にすぎず、それ自体には何の意味もない。これを秩序化する(意味を与える)のは右脳であるが、デジタル記号にすぎない観念機能(左脳)と共認機能(右脳)との間には決定的な断絶が存在しているということ。これが言語能力をどのようにして形成してゆくかを考える上での前提条件である。言い換えれば、如何にして、この観念機能と共認機能の断絶を乗り越えるのかという課題と同義である。
●赤ん坊の頃から言葉を獲得していく順序は「聞く→話す→読む→書く」であり、この順序に沿って追求してゆく。
聞くという行為は、動物にもある学習本能である。実は最も重要なのは、この土台にある「聞く」ことなのである。
ひたすら聞くという期間を1~2年経て、話すという段階に至る。聞いて覚えたことを真似して話す。ここまでは頭の良し悪しはほとんど関係がない。正常であれば誰しもが聞き、話すことができるようになる。これは誰にでも備わっている共認機能の力によるものだからである。そして、ここまでは話し言葉の段階だが、重要なのはこれが言語能力の土台であるということである(観念機能の土台が共認機能であることと同じ関係)。
幼稚園児くらいになって初めて書き言葉(文字)に出会うことになる。それまでに形成される「聞く」「話す」は本能機能・共認機能とある程度は結びついており断層は小さいが、文字はデジタル記号であり、そこには共認機能との間に甚だしい断層がある。
現に、聞いたり話したりすることは日常で絶え間なく発生するが、読むという行為は1日のうち稀にしかやらない。読むのは娯楽や仕事上の必要がある場合に限られる。しかも今や、遊びの失速で娯楽のために小説を読む者などほとんどいないので、残る動因は仕事上の必要しかない。そこでは期限に迫られるので浅い読み方にしかならないのが通例である。
最後に登場する書くという行為は、さらに断絶が大きい。
モノを書く必要に迫られることはほとんどなく、せいぜい仕事上の報告書くらいしかない。本能機能や共認機能から最も遠いのが、書くという行為であり、作文が苦手という生徒が多いのはこのためである。
このように、共認機能と観念機能との間には決定的な断絶がある。そして、言語能力の土台は聞くこと、話すことにある(文字にあるのではない)。これを土台として、如何にして観念機能との断絶を乗り越えられるかが言語能力を規定する。
●戦前までの日本人は現代人よりはるかに高い言語能力を持っていたが、彼らの勉強法はひたすら論語の暗唱であった。そして、論語を音読することの意味は、文字を読むことにあるのではなく、周りが音読するのを聞くという所にある。「門前の小僧、習わぬ経を読む」という諺がそれを示している。厳選されたテキスト(聖典)を繰り返し音読して完璧に暗唱できるレベルまで覚えること、これが共認機能と観念機能の断層を乗り越える、唯一or最も効果的な方法論である。
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(論語)
論語の素読を繰り返してきた戦前までの日本人以外にも事例はある。
ユダヤ人は頭が良い民族(ノーベル賞受賞者の25%がユダヤ人)として有名だが、彼らはユダヤ教の聖典タルムードを3~4歳の頃から反復暗唱する。また、イスラム教徒も聖典コーランを幼少期から暗唱できるまで繰り返す。彼らの頭の良し悪しは定かでないが、イスラム教徒が尋常ではない集団収束力を持つのは誰しもが知る所である。このように活力⇒能力の高い民族の秘密は、聖典の反復→暗唱にあることは間違いない。
質の高い聖典を反復し、暗唱できるレベルまで完全に記憶してはじめて、その内容を使いこなせるようになる。その言語能力をもってすれば別のストーリーにも対応できる。このように自由自在に文章を使いこなせるようになる前提条件が、聖典を暗唱できるまで完全に頭に叩き込むことにある。(最低1000回は反復しないと、肉体化して使えるレベルに達しない。)
一人で音読してもよいが多人数(5~10人)で斉唱するのが最も有効である。重要なことは、、(自分で音読しながら)周りの声を聞くこと。これが言語能力の原点だからである。
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(画像はコチラからお借りしました)
最近のるいネットで『実現論暗唱会』が報告されているが、それによって今後どれだけ言語能力が上昇するか、注目していきたい。
- by hiroaki at 20:02

コメント
>戦前までの日本人は現代人よりはるかに高い言語能力を持っていたが、彼らの勉強法はひたすら論語の暗唱であった。
キミら高校生だね。こんな歴史的デタラメを平気で書きつらねているわけだから。戦前も教科書(尋常小学校国語読本)が基本であったのは、戦後と変わりありません。ただ、戦後は科目数がやたら増えて、国語の分量が減ったということでしょう。
どっから「論語」が出てくるわけ? 齋藤孝のような世間知らずの学者のいうことを信じちゃダメよ。「論語」だけで国語教育が事足りるなら教科書は要らないし、学校に行く必要もないだろう。テキストは論語のみ、方法論は音読だけなら、八百屋のあんちゃんに習っても同じだろうからね。
もっと勉強しろよ。文科省でも行けば戦前の国語のカリキュラムを教えてくれるだろう。教科書会社を訪ねていってもいい。とにかく、戦前は論語の音読だけだったというような暴論珍説はやめて下さい。まっとうな大人が運営しているサイトではないことが、今日はっきりしました。
君たち、自分の過去に砂をかけることはない。君たちは日本の教科書でしっかり学習してきたから今があるんです。私の手元には大正六年文部省発行の教科書がある。戦前の教科書の復刻版も出ていますからウソついちゃダメよ。もっと勉強しなさい。もっと論語でも読みなさい。
国語教師さんへ
横から失礼します。
>君たち、自分の過去に砂をかけることはない。君たちは日本の教科書でしっかり学習してきたから今があるんです。
むやみに自分のやってきたことを否定することと、事実を検証することは私も違うと思います。もしかしたら、気付いていないだけで国語の授業で学んだことがたくさんあるのではないかとも思います。
けれど、今の自分の国語能力がとても低いこと(社会の役に立てるレベルではないこと)を考えると、とてもではありませんがこれまでの自分の国語学習が正しかったとは思えません。
日本人として暮らしていける程度(現代社会を見ているとそれも怪しそうですが)であれば現状でもいいのかもしれません。けれど、それでは社会を良くしていけない。もっともっと社会の役に立てるようになりたいるためには?→もっと国語力を上げるに?とこのブログは追求しているんだと思います。
ちなみに私は1ヶ月程前から暗誦を始めました。実際にやってみて、今まで頭が張っていたアンテナを心が張るようになり、その感じたことを文章にするのでいろんな人の心に響くような文章が書けるようになってき始めているのではないかと感じています。だから、実際にやってみたひとりとして暗誦に大きな可能性を感じています。
国語教師さんが今の国語教育で良いと考えておられる理由を「もっと勉強すべき」ではなく聞かせていただきたいです。
国語教師さんへ
暴論珍説ではないと、私は思います。国語教師さんへ言えることはそれぐらいです。
>テキストは論語のみ、方法論は音読だけなら、八百屋のあんちゃんに習っても同じだろうからね。
その通りですよ?笑
私は、国語の授業が暇で暇で寝ています。寝るのは失礼なので最近は小論文や、その授業で扱っている文章に関する小論文を書いています。
それでも「テストは」普通に取れますし。偏差70の高校生と偏差30の高校生の国語の関心は同程度です。「教科」としての差はあれど、国語能力としての国語はあまり差がありません。
私は正直、あなたのような人が国語教師だなんて言うのがびっくり。ていうかその前になぜそのような偏狭な言葉使いしかできないのだろうかと人としての教養を疑います。
国語教師さんは今の教育界の問題を本当に理解されているのでしょうか?生徒は当事者ですからよくわかっていますよ?勉強(特に国語)は苦行ではありません。けれど現状はそれとまったく同じ。苦しい時間が終わればみんなやっと終わったと心のそこから喜ぶ。これのどこが教科書のお陰なんですか?現実を見てください。
必要性のないテキストなど要りません。そして理解ありきの勉強など要りません。
戦前の勉強はひたすら暗唱であった、というのは暗唱だけ、という意味ではありません。それぐらい分かってください。教育の基本としてまず覚えさせることを大事にした、とにかく暗唱だ、という意味で、暗唱だけをしていた、とどこに書いていますか?
文章を正しく読む力をつけてください。
九九をその法則性から教えますか?そんなことしたら分かる人と、分からない人が出てくる。ちょっと基礎的なことを教えて後はひたすら暗唱だけだったでしょう。そしたらどうです?九九できない人なんていないですよね?これが使える、ということです。
では、接続詞の穴埋めがなぜみんなできないんでしょう?あんなものは評論一題、きもちわるいくらい読み込んだら間違うはずがありません。国語能力で当たり前のことすらできていないのに、それを無視して「レベル別に」教科書を組む。だから「ついていけなくなる人間へのカリキュラムはない」
暗唱にレベルなどありません。だから差はあれどその人なりに一生懸命暗唱すりゃぁいい。今より環境が良くなかった昔でも世界有数の識字率をほこったのは、理解ではなくそういった、理解よりもまず覚えて使えること、を重視した結果であろうと思います。
国語教師さんの思い込みだけでこの世の中が動いているわけではありません。