2009年12月23日

観念パラダイムの逆転7 新しい認識だけが、現実を変えてゆく


<アインシュタインと湯川秀樹:画像はコチラからお借りしました>
前回のエントリー「観念パラダイムの逆転6 残る観念は、頭で塗り替えたら終い」において、思考とは現実の圧力に適応するために行われるものであること、そして貧困の消滅以降、現実圧力が序列圧力から同類圧力へと転換し、共認充足、本源充足の可能性が開かれたことから、現実否定に基づく旧パラダイムから現実直視→可能性視の新パラダイムに、必然的に思考パラダイムは転換すること。いまや特権的知識階級(学者、マスコミ)の存在が、パラダイム転換の阻害要因となっているが、序列原理と旧パラダイムに依拠する彼らの存在は歴史上の遺物でしかないことなどを四方氏の投稿から明らかにした。
今回は、「観念パラダイムの逆転7 新しい認識だけが、現実を変えてゆく」の紹介を通じて現実を変える=実現するためには、更にどのような思考スタンスが必要なのかを紹介したい。
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原始人も現代人も、専ら現実に立脚すると同時に、ひたすら現実を対象化して生きてきた。つまり、潜在思念に導かれて現実を直視することによって、新たな可能性を探り当て、新たな意識(新たな状況認識に導かれた実現回路)を形成し続けてきた。
換言すれば、一個の生も、その塗り重ねたる歴史も、常に現実から出発して新しい認識を紡ぎ出し、それに応じて現実を変えてゆく(現実が変わってゆく)過程である。
現実を社会と言い換えても同じである。社会は人々の共認によって統合され、その意識=共認内容が変化してゆくことによって変わってゆく。現実が変わる=社会が変わるとは、ただそれだけの事である。
その共認内容は徐々にしか変わらず、例えそれが30年ほどの間に猛スピードで変わったとしても、その共認内容の変化に応じて一つずつ規範や制度が改革されてゆくことによってしか、社会は変えられない。

観念パラダイムの逆転3」において、現在「現実とは人々の意識である」ことが四方氏によって示された。その認識に基づき、この節では、「社会が変わるとは、人々の共認内容が変わることである」との提起がなされている。つまり言葉を変えれば「社会とは、人々の共認内容が作り出すという」、社会という漠たる対象をより具体的なものに構造化した提起でもある。
そして、共認内容を変えるために今、最も必要なことは、新たな状況認識に基づき、新たな可能性を提起すること、即ち「新しい認識を紡ぎ出すこと」である事が、鮮明に提起されている。
そのスタンスの違いは、「社会を変える」ために、100年一日の如く同じスローガンを叫び、反政府運動や「要求運動」を繰り返してきた「既成運動」と対比すれば明らかである。

そこで、最も重要なのは、絶えず新しい認識を紡ぎ出し、人々の共認内容(意識)を変えてゆくことである(新しい認識さえ共認されてゆけば、それに応じて制度etcを変えてゆくのは簡単である)。
原始人がそうであったように、現代人のこれからの現実の生においても、新しい認識の創出とその共認形成が全てであり、そこでは抽象的な「社会変革」という意識は生じない。社会変革という言葉は、倒錯した現実否定の意識からのみ生じる。また、現実否定の意識に基づいているからこそ、「社会変革」という言葉それ自体が欺瞞観念となるのである。

まず、事実として「既成運動」によって唱えられてきた「社会変革」(近代思想が唱えた理想)など実現した試しがない。ロシア革命始め、共産主義革命は結局武力支配の体制の一変種に終わったことは明らかである。それどころか社会変革を唱える既成運動も衰退するばかりである。
では何故「社会変革」という言葉自体が欺瞞観念となる宿命にあるのか?
真っ当な思考においては、常に現実の問題とその突破口の探索という形で問題が立てられ、実現に向けてとことん思考は具体化されてゆく(対象も方針も)。
それに対して「社会」いう概念は、一個の「抽象観念」に過ぎない。例えば「社会に問題がある」と問題を立てた場合、問題の原因であるはずの「社会」は曖昧模糊としたまま、雲の上の訳の分からないものにすり替わってしまっている。抽象観念の欠陥である。
とりわけ近代「社会」という言葉は、「個人」との対語として用いられてきた、嫌いさえある。さらに、「変革」という意識(言葉)の背景には、端から社会を否定的対象として捉える意識(前提)がある。つまり「社会変革」とは、問題を社会という抽象的存在に押しつけて、自己の否定意識を正当化したものに過ぎない。そのことをより詳しく触れた説明が「自主管理の招待(3)」という投稿にあるので少し長くなるが紹介する。

しかし多くの人々が、自己の日々の労働の、疎外された現実を見つめようとはせずに、観念的に飛躍した抽象的な「社会」を相手に、政治的要求をつきつける事が「社会的」活動なのだと、錯覚している。あるいは、社会の土台を成す生産のあり方を考えようともしないで、単に個人のためだけの消費的要求を掲げ、それを社会に押しつけることが「人間的」立場なのだと、錯覚している。要するに、自らがそのために何かを成すべき社会ではなく、何かをしてくれるだけの抽象的な「社会」を措定し、そこにすべての責任をおしかぶせて、自らは何か人間的で社会的な活動をしているつもりで済ましている。だがそれは、社会それ自身の存立を無視した、個人から社会への一方的なもたれ懸りであり、身勝手なエゴであるにすぎない。社会に何かを要求することしかできない(従って本当の社会を欠落させた)このような「運動」の結果、この社会は、労働者や農漁民が、消費者や地域住民が、あるいは経営者や地主が、互いに「社会」正義を振りかざして私的な利権を奪い合う、エゴのゴミ捨て場と化した。社会それ自身は、誰からも見捨てられ、断末魔の苦痛に喘いでいる。
他ならぬ自分自身が、このような事態を作り出した当事者なのだという自己の存在の犯罪性に口をつぐみ、あたかも神であるかのような位相に己を移し変えて、いつも一方的に「社会」に罪をなすりつけるこのような意識構造は、何も一部の「進歩的」な人々だけのものではない。

更に連関させていえば、「社会変革」という言葉そのものは思想の衰弱と共に力を喪っていったが、それに代わってここ10年は「改革」という言葉が世を跋扈した。
しかし「改革」という言葉も騙しであったことは明らかである。
例えば05年小泉フィーバーは「構造改革」あるいは「改革を止めるな」というスローガンが用いられた。これも「社会変革」と同様、「社会」という言葉を構造という言葉に置き換えただけで、肝心の構造の中身は殆どまともに示されなかった。日本の閉鎖的「構造」が閉塞の原因と一方的的に問題をすり替え、メディアを総動員して「改革」というバラ色の言葉によって、人々を騙しへと誘導したものにすぎなかったことは今となっては明らかである。(「改革」という美辞麗句に隠された、その実態は外資やアメリカに日本を売り渡した、売国政策に過ぎなかったことが、急速に明らかにされつつある)

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<構造改革:画像はコチラからお借りしました><Change!:画像はコチラからお借りしました>

何かを実現しようとすれば、思考の対象はとことん具象化されてゆく。実現思考で生きていた原始人の精霊はとことん具象的だし、自然科学もそうだし、実現論もそうである。(例えば、原始人には「自然」という概念は存在しない。)
それに対して、「自然」や「社会」は、問題を直ちに解決できない(むしろ、実現可能性がない)ので、問題世界を一括りにしただけの概念である。直ちに解決できないので、現実否定の倒錯思考という観念パラダイムに陥って終い、問題世界を一括りにしただけの「自然」「社会」「変革」etcの概念しか作れなかった訳だが、そうである以上、それらの言葉(自然、社会、変革etc)は単なるお題目にすぎない。

ここで「社会」や「自然」や「改革」なる言葉は「抽象観念」さらにいえばそれ自体が欺瞞観念であるという提起が四方氏からなされている。確かにそうだと思う。
例えば農業や漁業を営んでいる人たちは、決して自然などという抽象的な現実の中で格闘しているわけではなかろう。彼らが克服すべき対象は日照りであり、波であり、土質であり、それぞれの自然現象は相互に連関しているものの、直接的に格闘しているのは具体的対象である。
原始人にとってはなおさらであって、彼らは自然現象の背後に目に見えない超越的な力を見いだし、それを精霊と名付けた。それらは「八百万(やおろず)の神」という言葉に象徴されるように、それぞれがとことん具象的である。
それに対して、「自然」という観念は単に人間(人為)の対比観念に過ぎなく、(「社会」と同様に)その言葉自体ではそれ以上の意味を持たない抽象観念である。従ってその言葉を用いても現実は何ら対象化されず、ましてや実現など出来るわけはない。
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<大木:画像はコチラからお借りしました>

従って、「社会」や「変革」という言葉を使えば使うほど、現実否定の倒錯思考を正当化し、その観念パラダイムに陥ってゆくことになる。従って、この様な倒錯観念はできるだけ使わない方が良い。
例えば、「答え探し」「その為の場作り」etcもっと具体的に実現可能性を示す言葉を使う方が良い。

驚くべきことに、「社会」や「自然」という一見中立的な観念さえ、実は倒錯観念(欺瞞観念)という色彩を濃厚に孕んでいた。物事を実現していく上では、何の役にも立たないという意味において。
当面は旧パラダイム派との観念闘争は必要になろう。しかし最終的には諸問題の突破口を「どうする?」という問題に観念闘争の中身は移行して行くであろう。
現実の可能性が開かれた現在、否定のパラダイムからの脱却はもとより、本当に実現するためには思考はとことん具体化されていく必要がある。より実現可能性を感じさせるような認識に肉薄してゆく必要がある。そのことを改めて心して、シリーズ第7の紹介を終えたい。
(このシリーズでは旧パラダイムからの逆転と、新パラダイムへの転換の必要性と必然性について様々な角度から扱ってきた。次回は、その全体を改めて俯瞰して紹介する内容としたい。)

List    投稿者 mokki | 2009-12-23 | Posted in 14.その他6 Comments » 

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お疲れ様です。
大衆が無知だというのは仕方が無いでしょう、そうされているのだから。しかし、大衆が情報を与えられたらどうなるのでしょうか?
それによって考えることをするのでしょうか?
我々は身の回りの者たちに、多くの事実を提示してきています。そして、大半の者がそれを自ら考え、調べ、自分の中に回答を見出そうとしているのでしょうか?
回答はNOです。
ほとんど大半の大衆の致命的欠点は、自ら考えようとすることから逃げる”なまけもの”なのです。
だいたい、ほんの1分も待たないで信号が青になるのにそれすら待てない者たちが大衆の半数以上です。(車通りの少ない小さな交差点で、信号無視歩行者の多い交差点を見てください。車通りの多い交差点は物理的に信号無視が不可能だから参考になりません)
社会の秩序を守ることの重要さというものすら、蚊の目糞ほども考えられない自己中心主義者=大衆だと言ってもよいかも、とも思っています。
その事実を踏まえたうえで、社会を考えないと、根本が間違ったままでの考えになるのではないでしょうか?
などとど素人が愚考いたします。
失礼いたしました。

 member | 2010.07.27 21:31

unimaroさま、コメントありがとうございます。
確かに、これまではunimaroさまの仰る通りです。その象徴が2005年の郵政選挙で、マスコミ総動員によって大衆は踊らされ、騙されてしまいました。
ところが今や、大衆の間ではマスコミに対する不信感や怒りが高まっています。
「官房機密費問題追及に、既存メディア側からも心ある『援軍』が続出!」 http://diamond.jp/articles/-/8826
>「週刊ポスト」編集部には、例のないほどの好意的な声が多数寄せられている。しかも、セックスを売り物にした、上品とはいえないこの週刊誌に対して、女性読者からの電話も少なくない。これは創刊以来初のことだという。それほどまでに、この問題に対する一般国民の怒りは深いのだろう。
これまで大衆はマスコミの言うことを鵜呑みにしてきたからアホ化してきたわけですが、大衆の間で反マスコミの潮流が顕在化してきた。この意味は決して小さくありません。大衆が自分たちでモノを考える、そういう時代が始まりつつあることを暗示しているのではないでしょうか。

 中高年 | 2010.07.27 21:39

unimaroさん
>社会の秩序を守ることの重要さというものすら、蚊の目糞ほども考えられない自己中心主義者=大衆だと言ってもよいかも、とも思っています。
私も、横断歩道で、青になる前に渡っている一人ですのでunimaroさんの言われている大衆(社会の秩序を守ることの重要さも解っていない)の一員です。
しかし、昔ほど自己中心主義者で無くなってきたと思っています。
事実、廻りの人を見ても、数十年前から比べると自己中心主義者が少なくなって来ている実感があります。
今、自己中心主義者は、仲間はずれされる風潮があり、世の中の雰囲気が、大衆の思想を作っているのだろうと思います。
現在、本能を直撃する不安感が、大衆を支配しており、考えざるを得ない状況になっている気がしますが如何でしょうか?

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