2009年11月09日

【観念パラダイムの逆転1】~現実捨象の倒錯観念から、観念捨象の現実直視へ~

前回までの「思考次元1から3」で人類に求められる本来の思考(潜在思念の実践思考及び、超越思考(構造思考)と、私権時代の誤った「否定意識の倒錯思考」を明らかにしてきた。
それを踏まえ、今求められる、認識パラダイム(思考様式)の転換について踏み込んだ、四方氏の「観念パラダイムの逆転」シリーズを今回より紹介していきたい。
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(写真は「iza」さんからお借りしました。)
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引用:
何であれ、現実を否定すれば自己欺瞞(そして意識と存在の断絶・分裂)に陥る。だが今、その現実は自我・私権を残存させつつ、充足基調から本源収束へと根底的な地殻変動を起こしつつある。つまり、今ようやく肯定可能な現実基盤が形成されようとしている。
ただ、その潮流は、欺瞞観念にフタをされて出口を見つける事が出来ず、その結果、社会不全(危機と閉塞)が高まっている。そして、高まった本源収束と社会不全のマグマは、出口を求め、可能性収束⇒答え欠乏を上昇させつつある。

先ず表題にある「倒錯観念」と文中の「欺瞞観念」との違いについて説明しよう。
仏教やキリスト教などの古代宗教(倒錯観念)は、苦の現実を全面的に否定し、「あの世」などの架空観念に収束した。ここで本来の観念のあり様とは思考次元の1「潜在思念の実践思考」で明らかにしたように、内識と外識(外部世界)をイコールに結ぶ事であり、その意味で徹底した現実の直視、或いは肯定視(可能性視)に貫かれている。その本来の観念のありようから見れば、現実を全面否定し、架空観念へと収束する姿は、正しく観念の「倒錯」に他ならない。
しかし、古代宗教は同時に、苦の現実を生み出した源である、人間のエゴ(自我・私権)をも完全に否定している(例えば仏教であれば煩悩の否定視)。それに対して、近代思想は同じく現実(身分支配や資本支配)を否定しながらも同時に、それを生み出した源である自我、私権を全く否定していない。それどころか「個人絶対」「権利絶対」などに象徴されるように、自我私権に立脚し、それを人々に受けれいれやすい(騙しやすい)言葉で化粧仕立てしたものに過ぎない。この思想構造は正しく「欺瞞」である。
【参考投稿:】
この欺瞞の構造は自主管理への招待に分かりやすく描かれている。

>一言でいえば、彼らは表面と中味が、自分自身の意識と存在が、完全に断絶している。どれだけ高度な思想で自らを武装したところで、それでメシを喰ってゆくことの現実が、消えてくれるわけではない。どれだけ人間的連帯を叫んだところで、それで他人を蹴落して大企業に居ることの現実が、帳消しになるわけではない。そこでの「思想」は、常に自己の現実の前に挫屈し、いずれ消え失せる以外に何の道も残されていない。
実際、そのような「思想と運動」は、何を残し得たのか?残された彼らの真実は、受験戦争に勝ち抜いて大企業に入り、そして今ではその体制に寄りかかって、ひたすら身の安定を求めているという現実ひとつ以外に何もない。その現実は、彼らの頭の中の「人間主義」や「社会変革」と、どう結びつくというのか? 自ら否定している現実と、自分自身の現実とは同一ではないか!

つまり、近代思想=欺瞞観念とは己が私権存在であるという現実を棚上げにして、あたかも高みに立った神の位置に自らを置き高説を垂れたものに過ぎないのである。

>他ならぬ自分自身が、このような事態を作り出した当事者なのだという自己の存在の犯罪性に口をつぐみ、あたかも神であるかのような位相に己を移し変えて、いつも一方的に「社会」に罪をなすりつけるこのような意識構造は、何も一部の「進歩的」な人々だけのものではない。また日夜、紙面の至る所にこの狡猜な図式をちりばめて、世論をリードしてゆく「良識的」なマスコミだけのものでもない。社会に対する一方的な『否定と要求』のこの意識構造は、現代人すべてに共通の構造である。

このような欺瞞(偽善的)な観念では現実を変えることも、新たな可能性を発掘する事も出来ない。そこで四方氏は思想構造(観念パラダイム)の全面転換を提起する。
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(写真は「週刊金曜日」さんからお借りしました。)

引用:
>社会は、人々の共認内容が変わってゆくことによって、自ずと変わってゆく。現在、その共認内容は自我・私権を残存させており、何よりそれを正当化する欺瞞観念に覆われている。しかし、現代が古代や近代と決定的に異なるのは、自我・私権の衰弱→終焉が既に明らかであり、それに伴って否定意識に代る充足基調⇒本源収束の潜在思念が顕在化しつつあるという事実である。
従って、潜在思念(=下部意識)の充足基調⇒本源収束を実現に導く、現実直視の状況認識(事実認識or構造認識)さえ提示すれば良い。そこでは現実(下部意識=潜在思念)を肯定こそすれ、否定する必要はない。
ただ、欺瞞観念(上部意識)だけは、全的に否定しなければならない。でないと、欺瞞になる。欺瞞観念を捨てて、事実認識に置き換えても、下部意識=本源収束が実現され易くなるだけで、何の矛盾も自己欺瞞もない。

‘70年貧困の消滅に伴い私権価値(地位や金)は衰弱し、人々はもはや私権に収束できなくなってゆく。それに伴って、近代思想が否定視した社会体制(身分支配や資本支配)は徐々に力を失ってゆく。そしてそれら「私権の現実」にかわって人々の潜在思念=下部意識(肉体)は、共認充足を中核とした本源価値へと収束してゆく。つまり私権の現実に代わる「新しい現実」が徐々に顕在化しつつある。
例えば、若者を中心とする仲間収束の意識潮流や、就職における選択判断の基準が、地位や報酬の高さより、会社の雰囲気(人間関係)や社会貢献に置かれるなどの変化がその具体的現象の現れである。
本来人間の観念は現実を否定などしていなかった。古代宗教や近代思想はその本来の在り様を逆転(倒錯)させた。
しかしながら否定すべき旧い現実は年々衰弱している。だとすれば、改めて人類本来の観念のありようである、現実直視=現実の中に新たな可能性を求めるという「観念パラダイムの大逆転」こそが、今、求められる認識の位相なのだ。そこでは現実を否定する必要などなく、あくまでも、社会状況の変化(と変化を阻害するカベ)を丹念に構造化していけばよいのである。

引用:
かつて本源社会を破壊した古代人が、現実(下部意識)を否定して倒錯観念に収束したとすれば、再び本源時代を迎えた(にも拘らずその倒錯観念の末裔たる欺瞞観念によって全面閉塞に陥った)現代人が、現実を肯定して倒錯観念を否定するのは、当然の成り行きだったのである。

欺瞞観念では現実を切り拓く事は出来ない。人々を欺く欺瞞観念はこの新たな現実の変化を見誤らせ、現実の可能性を閉塞させるだけである。
(例えば「個人絶対」という観念は仲間充足と敵対しそれを阻害する。)
現実を否定する必要はない。しかし、新たな可能性を顕現させ、それを加速するためには、それを阻害する欺瞞観念(現実否定のパラダイム)こそ、今、全面否定される必要があるのだ。
次回は何故現実否定のパラダイムが完全否定される必要が在るのか、次回は「観念パラダイムの逆転2」を紹介する事で、そのことを更に明らかにしていきたい。(続く)

List    投稿者 kuwamura | 2009-11-09 | Posted in 未分類 | 2 Comments » 

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