2009年05月25日
中国経済政策の変遷

東南アジアと中国(その1)のシリーズに引き続き中国を探求します。
今回の探求内容は、次の2点。
①東南アジアを考察していく段階で、中国の影響がかなり大きい事に気付かされた事から中国の経済政策の変遷や、その指導層を追うこととします。
②中国の『社会主義自由経済』という言語矛盾とも言える経済政策の背景を調べてみました。
1.毛沢東⇒鄧小平へ
1949年、北京で中華人民共和国の建国を宣言。
国家主席に毛沢東、首相に周恩来が就任した。
自由主義、土地解放を柱とした新民主主義を提唱し、労働者・農民を基盤とする社会主義国の成立だった。
蒋介石率いる国民党は、中華人民共和国成立後台湾へ逃れ、中華民国(国民政府)を継承した。反共政策をとっていたアメリカを含む西側の支援を受け、その後長らく中国の正統政権とみなされて、国際連合の安保理常任理事国であった。
毛沢東は、中華人民共和国では第1次五カ年計画('53~)で工業化の基礎を固め、第2次五カ年計画('58~)では人民公社による農業の集団化が進められた。
これは「大躍進」と呼ばれ、農業の生産目標が高められたが、結果は農村が荒廃する結果となった。毛沢東は批判され、'59年国家主席を引責辞任した。
1976年 毛沢東の死去の後、鄧小平の『改革・解放時代(1978~1992年)』で、一気に中国は、市場開放路線へと傾斜し、毛沢東が実施しようとした農業を中心に添えた経済復興政策とは、180度間逆の方向へと路線変更した。
鄧 小平(とう しょうへい)は、中華人民共和国の政治家で、生涯に3回の失脚を乗り越え、史的唯物論の視点に基づく「改革開放」政策によって、中華人民共和国の市場経済化に着手した。1978年から1992年までの、事実上の中華人民共和国の最高権力者であった。
2.中国指導層の原点はコミンテルン
鄧小平を除く多くの指導者層が、この時代には存在したがそのいづれもが、非業の死を遂げているにも関わらず、鄧小平は毛沢東の意向で、完全な抹殺にまでは至らなかった。
鄧小平は「あれはまだ使える」という毛沢東の意向で完全な抹殺にまでは至らず、党籍だけは剥奪されず文字通り一命を取りとめた。
また、『3度の失脚と復活』という稀に見る政界への復活を遂げ、中国の市場開放を行なうに至ったその原点を辿る事によって、鄧小平そのもと、中国の指導者層そのものの内実が見えてくる。
これには、『コミンテルン』との関係が深い。
1917年のロシア革命成功後、「世界革命」を目指すレーニンが、単一世界党としてのコミンテルン(第三共産主義インターナショナル)を1919年に成立させ、続いて世界各地に共産党(コミンテルン支部)を創出する活動を始める。これらのコミンテルンの工作が成功して、東アジア地域にもあいついで共産党が成立した。
コミンテルンと、鄧小平との関係は以下の通り。
鄧小平は、1923年3月、フランスのHutchinsonを退社し、職業革命家となる。
この「職業革命家」とは、主観的な問題ではなく、組織から活動費が支給されて経済労働の必要が消滅し、「革命」専業になるということだ。
実際には、コミンテルンから活動費が支給されていた。
鄧小平が、「職業革命家」となった1923年より以前に以下の事件が発生している。
1921年2月、コミンテルンの工作により、パリで「少年中国共産党」が結成される。
同年7月の「中国共産党」の結成をうけて、1922年には「中国共産党欧州総部」に改組。
ここで結成された「中国共産党欧州総部」は名前だけの組織ではなく、コミンテルンの資金と指導をうけた実際的な組織だった。
この活動費は、勉学を志すも貧窮と辛い労働に励まざるを得ない日々を送る、「勤工倹学」の「学生」たちには魅力的なオファーだったことが想像される。こうしてコミンテルンは積極的活動分子を獲得した。
3.コミンテルンの背後に金貸しの存在有り
①レーニンの場合:リンク
ロスチャイルド資本は、当時、世界で最大の金保有者であったロシアのロマノフ王朝にも目をつけた。彼らはロシア帝国が自分たちの同胞であるユダヤ人を迫害するのが我慢ならなかったという。そこで、レーニンやレオン・トロツキーといった革命家たちに資金を援助して、革命という体制の転覆を支援した。
②鄧小平とロスチャの関係:リンク
鄧小平とロックの関係:リンク
③中国における華僑派(鄧小平派)とロックフェラー派(上海閥)の主導権争い:リンク
ケネディが就任した’60年代頃に、米・ソ二極化構造の限界を迎えていた。
このことは、アメリカの力の限界とも関係しており、西欧・日本の復興や、後進国の台頭(中国・中東)などにより、金貸し層は新たな市場を開拓する為に中国に目をつけていた。
大きな中国の歴史の変遷を辿ってみるにあたり、
アメリカ・中国とも金貸しによって対立構造が作られその中核を牛耳られている事がわかる。
参考サイト:
毛沢東と鄧小平の経済政策
改革開放のレールの敷設者
- by kyupibekamu at 14:21



コメント
コミンテルン(第三共産主義インターナショナル)とは何ですか?
1つの国から出来ている組織ですか?
聞いたことがないもので、良ければ教えて下さい(^^)
鄧小平が、『3度の失脚と復活』ができたのは支援者がいたのですか?
支援者がいたとすれば、それはロスチャイルドですか?それともロックフェラーですか?
今の中国の共産党権力を支えている資本はロスチャ?それともロックフェラー?
中華人民共和国成立後、大陸内で誕生した新興革命財閥と、ロスチャイルド等ユダヤ系マネーメジャーとの密接な関係が、具体的には、歴史的にどのような面で見られるのか? その根拠をより鮮明に論じて欲しい。
コミンテルン(=共産主義の活動をする場)で学んだはずの鄧小平がその後180度趣旨転換(農業政策→市場開放政策)したのはなんででしょうか?
当時のコミンテルンの活動が気になります。
勤工倹学の学生たちは自分たちを援助してくれるだけで社会主義を選択したんですか?その時代の中国の内政が知りたいです。
多くのコメントありがとうございます。
毛沢東が目指したものも、
鄧小平が目指したものも、ソ連のような社会主義国家・共産主義ではなく、それを少しづつ変速させて、如何にして自国が大国になる為の手段として、レーニンが提唱したコミンテルンがあったにすぎない。
毛沢東は、中国の国力を世界に誇示する為に農業を中心とした政策に舵を切ったが、大失敗してしまった。
毛沢東の部下として、鄧小平は中国の復権を目指すという事が、彼が望んだのは、『マルクスの唯物史観』にべったりしていたわけではなく、彼がもっとも望んでいたのは『中国復権』の中心であった。
すなわち、彼の言動からもわかるように『白い猫でも黒い猫でも、ネズミを酉さえすればいい。』という言動や、『毛沢東の農業路線から、軽工業産業や都市部の開発・市場経済化というフロー』は全て、いかにしてソ連の革命手法をいかして、中国の権威を取り戻すかに尽きる。
ソ連の革命論に習うべき内容は、
その為の方法論にしかすぎず、上記言動からも、
鄧小平は『現実主義者かつ民族主義者』という観点から全ての行動を取っている事が分かります。
また、金貸しとの関係は、
中国の国交が回復するまでの間は、ロスチャ主導であり、
アメリカで70年代に力をつけだしロスチャと力関係が対等になってきたロックフェラーが、中国に入り込んできました。
71年のキッシンジャーの中国訪問や、ニクソンの訪中などは全てロック主導で行なわれています。
また、新興財閥と金貸しとの関係性は、もう少し具体的に詰めていかないとわからないですが、いづれにしても金貸しが裏にいて、中国共産党のトップ層と連関して現在の新興財閥が作られていることはたしかです。