2009年03月23日
日本支配の構造24 大東亜金融圏構想って何?

満州中央銀行券 画像はこちらから借りしました。
前回「アジアに円とリンクした“大東亜金融圏”(大東亜共栄圏の経済部門)を国家主導で築こうとし」展開しましたが、今回はこの大東亜金融圏構想がどうやって出てきたかを見てみたいと思います(今回記事は様々な文献の寄せ集めですのでご了承下さい)。
先ずは、明治から第2次大戦までを俯瞰する為、中国、通貨関係の年表を起こして見ました。
1840年 英商社の阿片の取締りを清国政府が強化したことから英清は阿片戦争へ。清国は敗退し阿片の代価として大量の銀が清から英に流出。
1867年 英商社が支援した薩長勢力によるクーデターが成功、明治政府樹立。
1871年 岩倉使節団
1874年 台湾出兵
1878年 横浜正金銀行開業。正金以前の日本の外国為替業務は、HSBCなどの英系銀行が専横。洋銀供給も独占していた。正金は銀専横への防衛。
1882年 日本銀行開業。国内貨幣制度(貨幣発行)の整理統合。
1884年 松方の発案で正金、日銀株を皇室財産に編入。
1885年 日本銀行券(銀貨兌換券)発行開始
1888年 正金(外国為替)、日銀(中央銀行)の役割明確化。正金拡充論、日銀との合併論を松方が抑えて二行体制に。松方は「中央銀行は外国為替業務を行うべきではない」と。
1894年 日清戦争
1895年 台湾領有
1897年 日本で「貨幣法」施行(金本位制へ移行)
1899年 台湾銀行開業。台湾島内の金融業務と為替業務を併せ持つ中央銀行。
1902年 日英同盟締結
1904年 日露戦争
1905年 朝鮮初代統監に伊藤博文
1909年 韓国銀行開業
1911年 韓国銀行を朝鮮銀行に改称。
1912年 中華民国が南京に成立。北京には清国があり中国国内は分裂状態に。
1914年 第一次世界大戦
1917年 米が金への兌換停止と金輸出禁止。日本も金輸出禁止。
1923年 日英同盟失効。
1928年 蒋介石が中華民国国家主席に。
1930年 主要国に遅れて日本の金輸出入を再解禁。金解禁の目的を「財界の安定」「国民経済の根本的建直し」「日本経済の世界経済への常道復帰」「金本位制の擁護」「日本の経済力の充実発展」
1931年 満州事変 日本金輸出再禁止
1932年 満州国建国。満州中央銀行設立。満州中央銀行券による満州国内の通貨統合。但し朝鮮銀行券も流通。
日本は「金貨兌換停止に関する緊急勅令」により管理通貨制に移行。
1933年 英国政府がリース・ロス卿をアジアに派遣。日英共同の対中借款を日本政府に提案。「日本は満州取得の代償として中国幣制改革に資金援助を行なえ」
※この時まで英国は日本の満州政策を承認していた。
1935年 中華民国が英政府の支援を受けて法幣導入し銀本位制を放棄。中国の銀はロスチャイルドの投資の回収に利用された(?)
1937年 日華事変(日中戦争)勃発。蒋介石が首都を重慶に移転(重慶政府樹立)。
一方北京には日本の傀儡である中華民国臨時政府が成立。※当然日英関係も悪化。
1938年 3月中華民国臨時政府が中国聯合銀行の設立を発表。聯銀券発行。
7月(旧)法幣の第二次暴落。暴落した法幣と聯銀券は等価交換していた。南京に日本の傀儡となる中華民国維新政府成立。
重慶政府に対して中国交通銀行が500万ポンド、HSBCが200万ポンド、チャータード銀行が200万ポンドを融資。
日銀、満銀が南京政府に1億円を融資。
1939年 1月英米が日本政府に通牒。「英国政府は、日本政府の意図が、日、中、満にブロックを形成し、日本がその最高権力を握り、中、満を従属させようとしている、と推断する」※日英は敵対関係へ
6月、7月の2回にわたってHSBC、チャータード銀行が法幣の為替売り止めを起こし、英国及び重慶政府が為替安定資金を枯渇させて旧法幣の通貨管理を放棄。
10月日本は、円-ポンドの固定為替を廃棄しドルにリンクする決断を下す。
1940年 日独伊3国同盟。基本国策要綱が閣議決定。「大東亜共栄圏」構想。
日本軍は、反蒋介石派であった汪兆銘を首班とした南京国民政府(汪兆銘政権)を樹立。南京の中華民国維新政府、北京の中華民国臨時政府は解散。
1941年 1月南京政府が中央儲備銀行設立、儲備券発行。7月在米、在英日本資産が凍結、円のポンド、ドルとのリンクが切断。12月太平洋戦争突入。
1943年 大東亜会議開催。
1945年 終戦
要約しますと、日本で明治維新が成立する27年前に清国は英国と阿片戦争を行い敗退、以降列強植民地闘争のアジアの主戦場となっていました。明治政府も維新の7年後に台湾出兵、更に23年後に日清戦争を行なって台湾を領有するなど、中国を舞台とした植民地闘争に参戦します。当時の中国は複数の臨時政府が立つ分裂状態で、進出した日本資本による台湾銀行、朝鮮銀行、満州中央銀行、中央儲備銀行の設立を経て次第に円系経済ブロックが成長していきます。これと同時に英資本が支援する蒋介石勢力と対立しますが、先に破綻したのは英国資本側で、日本はポンドリンクからドルリンクに切り替えるも更に孤立化を強め、資産を凍結されて太平洋戦争に突入していきます。
■何故通貨の発行競争を行なうのか?
英米も日本も、必要なものは中国国内の金銀、鉄鉱石などの資源や農産物で、これらの取引は貨幣交換(為替)を介在して決裁されます。互いに有利に為替レートを決めたい決裁国同士は、貿易協定、通貨協定を結んで運用していました。特に中国では、国家が不安定で安定的に決済できる貨幣が存在しないので、必然的に貨幣の主導権争いが発生していきます。
しかし、通貨支配により金銀を搾取する英米に対して、日本はより国家的な必要財(鉄鉱石や農産物)を安定的に調達する為に支配下地域の貨幣制度を構築せざるを得なかったものと考えられます。これはまさに搾取と資源確保の違いとして重要です。
又、大東亜共栄圏構想は、日本が孤立化した後に閣議で発表されており、英米を敵と想定する政治構想の意味合いが強いと言えます。当時の孤立した円経済圏の実体は、閉鎖的な自給自足経済で、英米と戦争を行なう体力は元々無かったようです。にも拘らず戦争を想定せざるを得ない状況下での国内向けの統合理念(の必要性)が、大東亜共栄圏構想に収束したものと言えるでしょう。従って大東亜共栄圏構想の金融部分である大東亜金融圏構想も、発表されたときには既に中国、インドネシア、タイなどを含めた円経済圏が出来上がっており構想としては後付です。
注目すべきは、西欧金貸しの国家支配の中心手段である「中央銀行制度」を、日本が自国以外にも展開し、(構想云々より現実として)英米が戦争を覚悟するほどの独自の経済圏をアジアに構築したことです。しかし、その末路は、経済圏を孤立化される一方、英、露などの武力闘争の圧力を高め、日本は中国と地域紛争を起こし、続いて米国との全面戦争に突入して敗退します。これらの過程が、日本を領有する先進列強の戦略だとしたら、日本は見事に追い込まれていったと言えるでしょう。尚、当初英国と友好的だった日本が英国との関係を次第に悪化させていったのが領土と貨幣を巡る中国問題ですが、そのように仕向けたのも英国だったのかも知れません。
因みに、満州事変後にリース・ロスを派遣したイングランド銀行総裁モンタギュー・ノーマンは、母方の祖父がモルガン・グレンフェル商会(ロスチャイルド系)の会長一族でした。
- by saito at 01:24



コメント
英は当時植民地からの搾取に血道をあげ、米国は来る石油の時代に向けて軍備と金融の準備にいそしむ。どちらも金貸しが国家を動かす状況ですが、日本のアジア政策はこれとは違ったのでしょうか?同じだったのでしょうか?
日本の金貸しといっても明治以降は三井や三菱などですが、彼らは政府や天皇と一体=国家の総体でアジアへ進出して行く様子が伺えます。西欧金貸し国家(列強)への対抗策として富国強兵策をとり、物資確保の為の経済圏拡大が急務だったと言うことでしょうか?
これを読んで植民地支配の構造が欧米と日本ではずいぶん違うと思った。
イギリスを初めとする欧米の植民地支配の方法は資源と生産と消費を分担して価格格差を利用して本国に富が集まる仕組みをつくった。
日本は植民地に資本を投下し産業を興して回収するというやり方を取った。それどころか日本は、現地の産業だけでなく良質な労働力を確保させるための教育にも力を入れた。大阪帝国大学(1931年)名古屋帝国大学(1939年)の前に京城帝国大学(1924年設立、敗戦による廃校後ソウル大学校に再編)・ 台北帝国大学(1928年設立、台湾大学の設立母体)を設立。
満州では1938年に建国大学が設立され、官費により学費は無料であった。また、全寮制で日本系・満州(中国)系・朝鮮系・蒙古(モンゴル)系・ロシア系の学生が寝食を共にし寮を「塾」と称した。
大東亜共栄圏というのはいわばアジアの経済ブロック体制の萌芽であり、それを許さない欧米の金融資本家の争いとなり、その対立を解決するための手段として戦争に踏み切った。それが太平洋戦争だと思います。
大東亜共栄圏という言葉はきいたことがありますが、その本質は、金融支配=金貸し支配である大東亜金融圏構想だったように思います。
明治の黎明期、岩倉使節団が欧米各国を歴訪しますが、本源性を色濃く残す日本人が、見た私権原理の社会と市場社会の根本である金貸しの世界=金融という支配構造は、衝撃的であったと思います。
それより日本は、独自の金融圏構想を立上げ、アジアの共栄を思考していきます。その本質は、金貸しであり金融をどうする?という課題であったと思います。
岩倉使節団、興味深いっすね。彼ら30~40歳で若かったんですよね。果たしてたぶらかされたのか?日本の自立を忘れなかったのか?
最近江戸への期待も高まっているようでこの辺りの歴史観の確立は重要ですね。