統合サイト るいネット
ランキングに参加しています
ブログランキング・人気ブログランキングへ にほんブログ村 政治ブログへ
最新の記事
CATEGORIES
PROFILE
ARCHIVES

2008年12月01日

日本支配の構造15 “天皇の蓄財”の流れ

images.jpg

m116 1945年(昭和20年)11月20日(水)の新聞記事

「日本支配の構造14 皇室財産」では、いわゆる“天皇の蓄財”が、天皇個人の私益追求としてではなく、権力基盤脆弱な薩長明治政府が、土肥勢力(征韓論政変⇒自由民権運動⇒帝国議会開設)との権力闘争の最中、自らの資産を国会の影響の及ばぬ場所に移すための戦略として行われたとの仮説を提示しました。
今回以降は、改めてこうした蓄財の実態(内訳と金額)や、その使途について追求することで、天皇~政府~財閥三位一体の戦前の「日本支配の構造」について考えてみたいと思います。

まずはクリックご協力お願いします。
ブログランキング・人気ブログランキングへにほんブログ村 政治ブログへ
ありがとうございます。 m034

まずは「天皇の蓄財」に関連する事項と金額の推移についてのデータや諸説を時系列にまとめてみました。


■1873年(明治6年)度末には約193万円

■1881年(明治14年)皇室料地わずか634町歩(1町歩=10反=約9,917㎡)

※1881年(明治14年)『国会開設の詔書』⇒『10年後の明治23年に国会を開設する』

■1882年(明治15年)岩倉具視らにより「皇室財産設定に関する意見書」が出される。
m117 「国民の全財産と大差ないほどの皇室の財産を大至急設定し、それによって陸海軍の経費はもちろん政府の維持費まで支弁するならば、どのような国会の攻撃があっても大権をまもることができる」「官有の山林はあげてことごとく皇室の御料地に編入せよ、また国有鉄道・工場なども皇室財産部に移管せよ・・・皇室財産を急ぎ大量に設定して、国家権力の物質的基礎たらしめよという岩倉の建議は、そのまま実行にうつされた。それは、あきらかな経済的支配階級の基礎を持たなかった不安定な当時の明治国家としてみれば、緊急の必要事であったにちがいない。」

■1884年(明治17年)12月⇒日本銀行の株式350万円組み入れ(皇室は日本銀行の株の47%を所持)

■1885年(明治18年)に宮内省に御料局が設置
・・・その前後から政府所有の有価証券(日本銀行・横浜正金銀行・日本郵船などの株券)が皇室財産に移された

■1887年(明治20年)⇒日本郵船の株式260万円組み入れ

■1889年(明治22年)⇒975万円

※1889年(明治22年)「大日本帝国憲法」 公布、翌年施行。
m117 その趣旨は、天皇主権・・・『天皇はなにものにも縛られない。憲法を破り あるいは破ろうとしても 天皇を裁く法律は無い。しかも、天皇は司法・立法・行政の全てから独立した地位に存在する。』
その趣旨は、天皇主権・・・『天皇はなにものにも縛られない。憲法を破り あるいは破ろうとしても 天皇を裁く法律は無い。しかも、天皇は司法・立法・行政の全てから独立した地位に存在する。』

m057  つまり、天皇に絶対的な権力を持たせ、もって明治政府の力と資金の基盤たらしめようとした意図がうかがえる。

■1890年度(明治23年)⇒1300万円(内、株式・社債が66%)
              ⇒皇室料地3,654,000町歩に拡大(9年間で約6,000倍/その年の民有林野総面積半分強)

■1895年(明治28年)⇒2100万円以上(内、株式・社債が69%)

■この頃、日清戦争の賠償金3億円のうち約2100万円を組み入れ(賠償金の8割は軍艦整備等戦費に回された)

■1899年度(明治32年)の全国102社の5000株以上の大株主98名が所有する株式総数の約11%、約23万株を皇室が所有>三菱財閥岩崎家の約19万株

※1906年(明治39年)満州鉄道設立

■1907年度(明治40年)には1億円を突破

※1919年(大正8年)満州に関東庁及び関東軍設置

※1931年(昭和6年)柳条湖事件→満州事変

※1932年(昭和7年)満州国建国

※1938年(昭和13年)興亜院設立(中国大陸占領地に対する政務・開発事業を統一指揮・・・阿片政策も統括?)

■1944年(昭和19年)⇒「内大臣・木戸幸一は、日米英戦争末期の昭和19年1月、日本の敗北がいよいよ確実になると、各大財閥の代表(銀行家)を集め、実に660億円(当時)という気の遠くなるような巨額の皇室財産を海外に逃すよう指示した。」(「神々の軍隊」より引用)

■1945年(昭和20年)10月GHQにより皇室財産公表
約37.2億(土地・建物・木材・現金・有価証券/美術品・宝石は含まない)
※但しこれは表向きの数字であり、上記のように、既に海外秘密講座に移されていたという説あり。

■1946年(昭和21年)GHQの指令により憲法草案修正「すべて皇室財産は国に属する。すべて皇室の費用は、予算を計上して国会の議決を得なければならい。」 

■1947年(昭和22年)3月:37億の9割にあたる約33億円が税額となり、納税は現物納という形で行なわれて国有財産とされた。


次回は、この年表に沿って、より具体的に蓄財の中身を見ていきたいと思います。

コメント

天皇中心の体制を気付くことが、国家戦略につながるという背景が気になりました。
よかったら噛み砕いて教えてください。

  • Route5 2008年12月02日 21:09

>Route5さん、コメントありがとうございます。

>天皇中心の体制を気付くことが、国家戦略につながるという背景が気になりました。
よかったら噛み砕いて教えてください。

現在の仮説の要点のみ上げてみます・・・

明治維新以降終戦までの流れは、開国に伴いいきなり武力を背景とした欧米の市場化圧力に晒された中、薩長中心の明治政府が、国内での(土肥勢力との)権力闘争を戦いながら、対外的にはイギリス(ロスチャイルド)と手を組みつつも、一方で植民地支配を恐れ独自に大陸進出を進めていく歴史であると考えています。
その際、元々貧乏な下級藩士の集まりである彼ら明治政府が、国家戦略を進める上で無くてはならなかったのが、天皇の権威と資金及び、日本の金貸し三井財閥の力だったのではないかと思います。(一説によれば三井家は藤原氏の家系)

その意味で、天皇とは彼らの“操り人形”(≒太古の昔から現在まで“象徴天皇”)であり、大日本帝国憲法や教育勅語にて天皇主権体制を築き、主に国策企業(日銀、横浜正金銀行、日本郵船、満鉄など)の株や、国策事業(満州における阿片売買やブラジルやハワイへの移民政策)を通じて、江戸末期には貧乏で全く力の無かった天皇に蓄財させ、それらを戦費、軍備増強費、満州国運営費として秘密裏に使っていたのではないかと考えています。(天皇の資金の使途や敗戦に伴う行方については謎が多く、調査中です。)

・・・巷では、天皇の蓄財と言えば、個人的な私利私欲といった言われ方をしていますが、実はそうではなく、“象徴”天皇を隠れ蓑にした日本の支配階級の策略ではないかと。

⇒この戦前の「日本支配の構造」が、敗戦⇒東京裁判を通じてどのように戦後アメリカによる「日本支配の構造」に“転用”されていったのか?が、最終的に解明したいポイントです。

  • kota 2008年12月03日 00:29

コメントする

comment form

この記事のトラックバックURL

trackbackURL:

トラックバック