2008年10月12日

『近代国家成立の歴史』3 教会支配の拡大と金貸しの台頭

『近代国家成立の歴史』2 国家と教会の結託 ~ローマ帝国を事例に検証する~ の続き
シリーズ第3弾!
前回は 国家と教会がどのように結びついていったのか?を検証しました。もはや武力だけでは統合できなくなった国家に対して、皇帝権力を正当化する教義を確立する事で、共認域の拡大に成功したことを述べました。
今回はその後の国家に対する教会支配の拡大と金貸し(商人)の台頭がテーマです。
その際たる事例として十字軍遠征を事例にあげ、教会が国家を超えて戦争を仕掛けるほど強大な力を持ちえるようになった事、さらにそこに金貸し(商人)達が影響を与え台頭していく様子を明らかにしたいと思います。
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十字軍とは中世に西ヨーロッパのキリスト教、主にカトリック諸国が、聖地エルサレムをイスラム教諸国から奪還することを目的に派遣した遠征軍のことです。1096年から約200年間の間に合計8回(説によっては7回)もの遠征が行われました。
十字軍遠征までの経緯は以下のようなものです。 
ウィキペディア

トルコ人のイスラム王朝であるセルジューク朝にアナトリア半島を占領された東ローマ帝国の皇帝アレクシオス1世コムネノス(在位1081年-1118年)が、ローマ教皇ウルバヌス2世に救援を依頼したことが発端(1095年)。このとき、大義名分として異教徒イスラム教国からの聖地エルサレムの奪還を訴えた。この時皇帝アレクシオスが要請したのは東ローマ帝国への傭兵の提供であり、十字軍のような独自の軍団ではなかった。
ウルバヌス2世は1095年11月にクレルモンで行われた教会会議(クレルモン公会議とも)の終わりに、集まったフランスの騎士たちに向かってエルサレム奪回活動に参加するよう呼びかけた。彼はフランス人たちに対して聖地をイスラム教徒の手から奪回しようと呼びかけ、「乳と蜜の流れる土地カナン」という聖書由来の表現をひいて軍隊の派遣を訴えた。彼がフランス人に、神のために武器をとるようにと呼びかけると、人々は”Dieu le veult!”(神の御心のままに!)と答えたという。

国王が教皇に助けを求めるようになるほど、既に国家と教会の力関係は逆転しています。しかも国王は傭兵の提供を求めただけなのに、教皇はそれを無視して独自の軍団を結成しています。
このように十字軍遠征が可能となった当時の社会的背景とは、どのようなものだったでしょうか?
世界史ノート(中世編)より

 十字軍はヨーロッパのキリスト教徒がイスラム教徒から聖地イェルサレムを奪回するために起こした遠征であるが、イェルサレムがイスラム教徒の手に落ちたのは7世紀のことで、350年も前のことである。なぜこの時期に十字軍が行われたのか、当時のヨーロッパの内部要因としては次のようなことがあげられる。
 (1)封建社会が安定し、三圃制や11~12世紀頃から始まった有輪犂を用い数頭の馬や牛に引かせて土地を深く耕す農法の普及など農業技術の進歩とともに農業生産力が高まり、人口が増大するなど、西ヨーロッパ世界内部の力が充実し、対外的発展の機運が生まれてきたこと。
 (2)ローマ=カトリック教会による民衆の教化が進み、当時のヨーロッパの人々は熱心なカトリック信者となり、宗教的な熱情が高まっていたこと、このことが背景にないと十字軍という最も中世らしい出来事は起こり得なかったであろう。
 (3)教皇の権威が著しく高まっていたこと、このことは有名なカノッサの屈辱(1077)が、十字軍が始まる 20年ほど前の出来事であったことを思い出せばよい。教皇は十字軍を利用して東西教会を統一しようとしていたこと
 (4)諸侯・騎士の中には、封建制の完成によってもはやヨーロッパでは領地を獲得することが困難となっていたため、ヨーロッパの外部で領地や戦利品を獲得して領主になろうとする者もあったこと。
 (5)当時次第に勃興してきた都市の商人達は十字軍を利用して商権の拡大をはかり、香辛料をはじめとする東方の商品を獲得して利益を得ようとしていたこと。
 (6)農民達は十字軍に参加することによって負債の帳消しや不自由な農奴身分から解放されることを望んでいたことなどがあげられる。
 
 十字軍はこのような様々な要因・人々の利害が複雑に絡み合っていたので、経過とともに宗教的な要因が薄れ、経済的な要因によって動かされるようになった。

つまり
農業技術革新による生産力の増大によって、対外的に戦争を起こす余力がうまれた事を背景に、
教会支配は進化し、教皇の権威をさらに拡大させたい教会が、聖地エルサレム奪還という宗教的観念支配によって、略奪による私権拡大を正当化。私権拡大の可能性に突き動かされた諸侯たちが行動に移したという構図が見て取れます。又商人達もそれに乗じて私権拡大狙っています。
このようにして十字軍遠征は続けられますが、失敗を繰り返します。権威失墜を恐れた教会は繰り返し十字軍遠征を命じますが、当然戦争を続けるために必要な財力は消耗していきます。やがてこの財力を巡って商人が台頭してくるのです。
それが第4回十字軍の遠征です。
世界史ノート(中世編)より

第4回十字軍(1202~1204)は、北フランスの諸侯・騎士を中心に編成された。目標をアイユーブ朝の本拠地であるエジプト
とし、海路による遠征を決定し、海上輸送をヴェネツィアに依頼した。ヴェネツィアは兵士・資財の輸送と1年分の食料調達を銀貨8万5千マルクで請け負った。
 十字軍士らはヴェネツィアに集結してきたが、約束の船賃が6割しか調達できなかった。交渉が難航したが、ヴェネツィア側がハンガリー王に奪われたツァラ(アドリア海沿いの海港都市)を取り戻してくれるなら船を出す、不足分の支払いは後でよいと提案してきた。
 十字軍士はやむを得ずこの条件を受け入れ、ツァラの町を襲い占領して略奪を行った(1202)。

十字軍が同じキリスト教徒の町を襲ったという報を聞いた教皇インノケンティウス3世は激怒し、第4回十字軍士全員を破門した。「破門された十字軍」という前代未聞の事態となった。
 翌年、破門された十字軍士を乗せた艦隊はツァラからコンスタンティノープルに向けて出航した(1203)。ヴェネツィアの商人と亡命中のアレクシオス(ビザンツ帝国の内紛により廃位させられたイサアキオス2世の子、後のアレクシオス4世)そして十字軍の指導者の間で、廃位させられた皇帝を復位させる、その代わりに皇帝は十字軍のヴェネツィアに対する負債を肩代わりし、さらにエジプト遠征の費用を負担するとの密約が結ばれていた。
ヴェネツィアの商人達は十字軍を利用して商敵であったコンスタンティノープルに打撃を与え、東地中海へ商権を拡大することを企てていた。
 十字軍士達は強く反対したが、結局ヴェネツィアの商人と十字軍の指導者の説得にあって同意し、コンスタンティノープルを攻略し、占領した(1203)。

なんと、財力あるベネチア商人達が、自らの私権拡大に都合いいように、戦争する相手を変えさせてしまうのです。当然十字軍も私権拡大が目的であり、お金がないとさらなる私権拡大ができないので、そんな要求でも飲まざるを得なかったのでしょう。
歴史のお勉強・これまでの軌跡

1203年7月、コンスタンティノープルに到達した十字軍艦隊は、同市を攻撃、皇帝アレクシオス3世は亡命してコンスタンティノープルは陥落、イサアキオス2世の復位が決まった(位1203-04)。皇帝は失明のため、アレクシオス4世が目となり、共同統治となった(位1203-04)。
 ところが、アレクシオス4世とイサアキオス2世の財力は乏しく、前述の渡航費も支払えないなど、契約不履行であった。さらにこの駆け引きがコンスタンティノープル市民に伝わり、各地で暴動が起こった。やがて、王室クーデタにより、翌1204年1月、アレクシオス4世と父イサアキオス2世は殺害された。首謀者はアレクシオス5世(位1204)を名乗り、皇位を簒奪した。この皇位交替は十字軍に衝撃をもたらし、コンスタンティノープルを再包囲、アレクシオス5世を追放し、アンゲロス朝を滅ぼした。ビザンツ帝国の生き残りはニケーアに逃れてビザンツ帝国の再興を促し、ニケーア帝国ラスカリス朝を建設、セオドロス1世(位1205-22)を皇帝に立てた。
十字軍は1204年、フランドル伯ボードゥアン1世を皇帝とするラテン帝国(1204-61)を樹立させ、ローマ教皇の望んだ東西教会の統合は実現した形となったが、これは事実上、ヴェネツィアの植民国家でもあり、地中海東部の沿海地方の覇権や地中海での商業ルートを獲得したことで、商業都市ヴェネツィアとしての権力が拡大した結果ともなった。

財力を元に自らの私権拡大に都合いいように軍を動かしたベネチア商人達は、ますますその権力を拡大させていきます。
その後も十字軍遠征は続きますが、結局失敗を繰り返し、教会の財政は悪化。財政建て直しのために贖罪状(免罪符)販売を大々的に行うようになります。それとともに教義も腐敗し、教会権威の失墜→宗教改革へと続きますが、この宗教改革を通して新たな商人(金貸し)が登場し直接国家に影響力を与える時代となっていくのです。(つづく)

List    投稿者 kichom | 2008-10-12 | Posted in 08.近現代史と金貸し2 Comments » 

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コメント2件

 あるぜんちな丸 | 2009.01.08 20:22

>日本の天皇は、昔からあまり政治に対して口を出さず、実際の時の統治者を指名すると言う役割を持つのみであった。この仮説が、正しければこの指名こそが時の統治者にとっては正当性の根拠となるので極めて重要だったと解釈できます。
古墳時代、各豪族がその権力に応じ、交替で天皇を出していたという説を聞いたことがあります。
また、鎌倉以降江戸幕府に至るまでは、実質的に国を統治していたのは天皇によって任命された征夷大将軍ですし、明治以降も元々下級藩士出身であり、財産も持たなかった明治政府の面々の権威付けと資金確保のために天皇の権威が利用されたと考えると、繋がってきますね。
その意味では、戦後天皇は人間宣言し、「象徴天皇」になったと言われていますが、古来天皇は「象徴」に過ぎなかったのではないかと思いました。

 ireland hermes bags | 2014.02.03 1:28

hermes premium outlet 日本を守るのに右も左もない | 日本支配の構造20”皇室財産”は、国策か?

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