2008年02月15日
マスコミ支配からの脱却基盤~代償収束から実物収束への大転換

2008年02月08日の記事「第一権力化したマスコミ ~娯楽史~」には、マスコミ支配から脱却するためのヒントが隠されている。
大宅壮一が提起した『(TVによる)一億総白痴化』。それは事実であったと言わざるをえない。「テレビというメディアは非常に低俗な物であり、テレビばかり見ていると、人間の想像力や思考力を低下させてしまう」ということだが、それはTVに限らない。映画を始めとする映像文化全体、さらには漫画などにも当てはまることである。
脳内に快美刺激を与えるのが映像だが、そこで刺激されるのは本能回路である視覚・聴覚だけであり、観念回路は使われない。視覚・聴覚に訴えかける映像では、見ただけでわかったつもりになってしまい、それ以上頭を使わない。大宅壮一氏の指摘にあるように中身の低俗さがそれを加速するが、本質的には映像による感覚刺激(⇒それ以上は頭を使わない)が人々の思考能力を低下させてきたのであり、この思考停止こそマスコミによる世論支配を可能にしてきた土台だったのだ。
では、マスコミ支配から脱却する可能性はどこにあるのか?
確かに20世紀は映像の時代である。1950年代までの映画・1960年代のテレビに人々は熱狂した。なぜか?
当時の人々が熱狂した主な対象は、物語やドラマなど非現実の架空世界や芸能などの感覚刺激である。私権原理⇒序列原理によって現実の共認充足の可能性が阻害されていた1970年以前は、現実には得られない共認充足の代償物として、(自分の頭の中だけを充足させるために)架空の映像世界や感覚刺激に没入した。それが、人々が映画やTVの登場人物に感情移入(同化)し涙した理由、芸能などの感覚刺激に酔った理由である。「紅白歌合戦」にさえ人々は同化し、「赤勝て」「白勝て」と応援したものである。
ところが現在は、感情移入どころか若者を中心にTV離れが進む一方。そして、TVを離れた人々は向かっているのは、現実世界の仲間であり、勉強や仕事など現実の課題そのものである。
つまり、私権原理から共認原理へ転換したことによって、現実の共認充足の可能性が開かれた。その結果、充足の対象がTV映像などの代償物(と感覚刺激)から現実の対象へと180度転換したのだ。代償物から実物へと人々の欠乏が大転換し、同化対象が代償物から実物へ転換したこと。これがTVや映像離れの根本原因である。
そして、人々の意識は、現実の仲間から勉強や仕事などの現実の課題へ、さらには「KY」という言葉に代表されるように自己中封鎖⇒規範形成に向かいつつある。早晩、「現実の社会をどうする?⇒どうなっている?」という意識が顕在化する。そうなれば、マスコミの代償映像や感覚刺激は相手にされなくなり、ましてや捏造報道や国益を売り飛ばす従米報道を続ける限り、反マスコミの潮流が顕在化するのは日の目を見るより明らかである。
このことは現在進行中の出来事であり、これが人々がマスコミ支配から脱却する基盤である。
(本郷猛)
- by hongou at 00:31


コメント
娯楽ってのは、現実世界の簡略化バージョン。
現実世界と巧妙に重なっていて、しかし本質の複雑な部分はカットし、分かりやすく加工したもの。
だから感情移入はできるが、
どうしてそうなってるか、は絶対分からないようにできている。
マスコミは、1970年代の緊張緩和(デタント)以降、現実社会の目まぐるしい推移の中で、そのスピードや視聴覚者の本来の要求に応えるべく、試行錯誤を繰り返して現在に至っていると思います。
果たしてそれは満足な試みだったかと言われれば心もとないのですが。
テレビ見ない人1号さん、くまがわ直貴さん、コメントありがとうございます。
マスコミの問題性の一つは、「編集権」にあると思います。
予めマスコミが作り上げたストーリーがあって、それに沿った、あるいは都合の良い断片的な現象事実だけが切り貼りされる。これが「編集権」です。そうなると、真相とは似て非なるものが出来上がるわけです。
>「紅白歌合戦」にさえ人々は同化し、「赤勝て」「白勝て」と応援したものである。<
確か、紅白の視聴率がピークに達したのも、日本において映画興行が隆盛を極めたのも70年前後。
このころは映像を多くの人たち(家族or近所の人たち)と一緒に観て、一緒に共感・充足していた、つまり、共認機能がフル稼働していた。
やがて、テレビの普及に伴って映像体験の個室消費化が進んだ。その過程は共感・共認回路の衰弱と平行している。
集団による映像解脱が、個人単位での映像解脱に移行したのだ。
今でも、何年かに一度、すばらしい映画を観たとき、劇場全体が充足の空気で満たされる瞬間がある。そこで皆が素直に声を上げたり、拍手が起こればその充足はより共認されるのだが。。。と少し残念に思うことがある。
一方で、そんな映画は最近皆無に近いのも事実。
これは、作品そのものが最初から個的解脱を意識して、「分かる人にだけ理解してもらえばいい(諦めも含め)」というスタンスで製作されているからではなかろうか。
今回の分析を拝見してそんなことを考えた。
脳内の感覚構造など、大変興味のある内容でした。
>代償物から実物へと人々の欠乏が大転換し、同化対象が代償物から実物へ転換したこと。これがTVや映像離れの根本原因である。
同化対象が仲間に変化するなかで、今なお人気のあるテレビゲームでさえも仲間で一緒にできるかたちをとって変化しているようです。
また、実物へと人々の欠乏が大転換し、欠乏に応えてきた媒体として、インターネットの存在があると思います。
今後の実物収束への可能性を拡げていくと思います。